《人の移動による地域の再生と形成:スロヴァキア―オーストリア国境地域を事例として》 (『九州人類学会報』第32号、2005年 掲載) 神原ゆうこ(コメニウス大学哲学部文化人類学科・スロヴァキア) 序 1.社会主義時代以前の状況 1-1 スロヴァキアの季節労働者 1-2 国境地域における人の移動 2.国境を越えた生活圏の再生 3.民主化後の移動の多様化 3-1 単純労働者の西への移動 3-2 労働者の二層化とその生活圏 結論 序 中央ヨーロッパ(中欧)の旧共産圏の国々は、民主化以降現在に至るまで、過去の社会主義から引き継いだ古い社会構造からの変容を続けている。経済改革や政治体制の変動以外に、西側の国境が開かれたことに起因する社会変化も大きい。民主化直後から、これらの国は西ヨーロッパへの統合を目標とした背景もあり、ヨーロッパの「西側」と「東側」 の境界を越えた人や物や情報の移動が急増したため、「東側」「1」の国々の生活は大きく変化した。 1989年以降西と東を隔てた壁が消滅したという意味で、ボーダーレスな世界の想像が可能になり、民主化とグローバリゼーションの関連も指摘されている[Outhwaite 2005:117]が、もともと中欧では、それより過去の社会主義時代以前から、国境を越えた往来が活発であった。この地域は過去に幾度も国境線変更を経験してきており、その時代の国境線に応じて人の移動先は変化し、行政機関で使用される言語も変化してきた。このような過程で言語や民族の境界を越えた人々の交流が育まれてきたため、かつては国境線を越えて人々が仕事や買い物のために行き交う一つのトランスナショナルな生活圏が数多く形成されていた。 第2次世界大戦後、中欧地域を分割するように鉄のカーテンが走り、社会主義時代は東側と西側の行き来が非常に制限された。一般の人々が国境を越えることは不可能になり、鉄のカーテンをはさんで形成されていた生活圏は消滅せざるを得なかった。しかし、現在また東側と西側の行き来が可能になったことにより、再び国境線を越えた生活圏が形成される可能性が予想される。ただし、単純に社会主義以前と同じ生活圏が復活するとは考えられず、断絶されていた期間の時代の変化や、民主化後の政治経済の変動が与えた影響を含めた国境地域の社会変化を考慮にいれて、その新たな生活圏を考察する必要がある。 民主化後の経済状況の変化や政治状況の変化に関する研究や記録が数多くあることと比べると、このような社会変化に関する研究や記録は数も少なく、変化を把握すること自体も難しい。社会変化の分析は社会学者が中心となって試みており、数量的統計を用いたなマクロな視点に立った研究、個人の行動や思想に焦点を当てたミクロな視点に立った研究、その中間にあたる社会資本や生活設計などを対象とする研究などが行われている[Wallace 1998:3-5]。文化人類学においては、1989年から91年にかけての政治変動によって、この地域に新たな研究の機会が生み出された。例えば、以前とは異なる視点から農村を研究することが試みられ、旧社会主義国の政治、民族に関する問題が注目される一方で、体制変換に伴って市場、消費を含んだ経済の分野に関する人類学的研究も注目されている[Hann 2002]。このような研究動向を踏まえて、この論文では、民主化後の「西」と「東」のヨーロッパの境界を越えた経済活動に関する人の移動について考察する。それを通して、移動に付随する地域社会の構造の変化に注目したい。 具体的には、「西」と「東」の境界に存在するオーストリアとスロヴァキアの国境周辺地域における人の移動を取り上げる。国境周辺地域では、様々な人や物が頻繁に往来するが、この論文ではこのようなトランスナショナルな地域の一つの指標として短期滞在を繰り返して国境を往復する労働者に注目する。過去の中欧においては、農作業の季節労働者がそれにあたる存在であり、現在も様々な職種の労働者が国境を越えて往復しているため、時系列的な分析を試みることが可能である。同じ移動であっても、この地域では社会主義時代以前からの「伝統的な」移動と、民主化以降のグローバリゼーションやヨーロッパ統合の文脈を踏まえた移動の2つが混在しており、それに基づいて政治的に分断された地域の再生と、新たな文脈に基づく地域の形成の2つが同時に進行している。したがってこの論文では、このような変動する民主化以降の「西」と「東」ヨーロッパの境界地域におけるトランスナショナルな空間の性格を明らかにすることに主眼をおく。 1.社会主義時代以前の状況 1-1スロヴァキアの季節労働者 「2」 スロヴァキアにおける農作業の季節労働者に関する歴史は19世紀末から20世紀始めに遡ることができる。当時、スロヴァキアはオーストリア=ハンガリー帝国を構成するハンガリー王国の一部であり、同じ国内ではあったが、スロヴァキアからハンガリーやオーストリアなど、異なる民族の住む地域へ多くの農作業の季節労働者が通っていた。彼らは、永住移民とは異なり、生活の基盤を故郷に残して頻繁に行き来していた。多くは広い耕地を持たない貧しい農民であり、収入を求めて生産力の高い広い耕地を持つ農家に仕事に通ったのである。季節労働者は春から秋にかけての農繁期の労働力として様々な仕事に携わったが、とりわけ小麦の収穫作業に必要とされることが多かった。その移動は国境周辺地域で顕著ではあったが、広くスロヴァキア全土から様々な地域へ季節労働者が移動していた。 スロヴァキア全体の傾向としては、北部スロヴァキアがとりわけ生産力に乏しい地域であったため、そこから多くの人々が南部スロヴァキア、チェコ、ハンガリーへが農作業などの仕事を求めて移動した。西スロヴァキアのなかでもオーストリアに隣接する南西部はそのような季節労働者の受け入れ先である一方、オーストリアやモラヴィア(現チェコ共和国の東部、地図1参照)へと仕事を求めて移動していった[Faltanova 1990:10]。19世紀は主に職種が農作業に限られていたが、スロヴァキアから多くの人々が季節労働者としてヨーロッパの広い地域に働きに出ていた。ただし、後の時代には農作業だけでなく、工場労働者として働きに出かける者も増えた。 1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、チェコスロヴァキアが成立したことで、国境線が変わり季節労働者の移動も変化した。季節労働者はハンガリーではなく、チェコかオーストリアに通うようになった。加えて当時、スロヴァキア、チェコ、モラヴァ(現チェコ共和国東部)、オーストリア、ユーゴスラヴァ、ドイツ、シレジア(現チェコ共和国北東からポーランド南西にかけての地域、地図1参照)の間には季節労働者の移動のための協定が結ばれていた[Bielik 1980:52-53]ので、季節労働者はしばしば春から秋にかけて長期に渡って、個人ではなく集団で別の土地に仕事に出かけた。1918年から1938年の間に、国の斡旋によりスロヴァキアから221,883人がユーゴスラヴィア、オーストリア、フランス、ドイツ、リトアニアに農作業の季節労働者として働きに行き[Faltanova 1990:10]、第2次世界大戦中はオーストリア(当時はドイツ帝国)で、およそ140000人ものスロヴァキア人が農業労働者として働いていた[Kruzliak 2001:220]。 このようにスロヴァキア全体で概観すると、20世紀初頭は、以前と同じく比較的近距離の場所へ通う季節労働者と、組織化され長期の出稼ぎに行く者との二種類の季節労働者が存在した。広い視点から概観すると、この地域では歴史的にその時代における政治的な事情を反映して様々な移動のパターンが積み重なり、ドイツ・オーストリアを経済的な中心として中欧とバルカンを含む大きな空間で人が移動していたといえる。 1-2 国境地域における人の移動 スロヴァキアとオーストリアの国境地域における季節労働者の移動は、スロヴァキア全体の傾向とは少し異なる様相を呈していた。経済状況のよいオーストリアへ仕事を求めて多くのスロヴァキア人が通ったが、その大部分は西部出身者で、かつオーストリア国境沿いのザーホリエ(Zahorie)と呼ばれる地域出身者が中心であった。彼らのほとんどが基本的に生活の拠点をスロヴァキアに残して往復していた。 オーストリアとスロヴァキアの国境にはモラヴァ川が流れており、この川はオーストリア=ハンガリー帝国時代から、現在に至るまでこの川は境界線としての役目を果たしてきた。この地理的な境界は、スロヴァキア人とオーストリア人の民族的な居住区域の境界でもあり[Kilianova 1998:11]、この川を境にスロヴァキア人とオーストリア人の民族構成が入れ替わる。社会主義時代以前には、この地域にスロヴァキアとオーストリアを結ぶ主な移動ルートは12通りあり(地図2参照)、一部は橋がかかっていたが、橋のない個所は小舟で川を越えていた[Kovacenvicova 1992]。 移動距離が短く、人の往来も頻繁であったので、国境地域には生活に密着した人と人のつながりが生まれた。国境を越えた雇用関係はオーストリア=ハンガリー帝国時代からチェコスロヴァキア時代になっても変わりなく引き継がれていた[Kilianova 1992:61-62]。またオーストリアへは農業の季節労働者以外に、スロヴァキア国内で栽培した野菜を売る野菜売りや雑貨商も通っていた。スロヴァキアからオーストリアへの永住移民の数は他の国に比べると少ないが「3」、その少ない移民の大部分はこの地域からの出身であった。彼らもまた農業、野菜売りを仕事とするか、工場で労働者として働いた[Bielik 1980:267]。 人だけでなく物も、スロヴァキアとオーストリアとの国境を越えて移動した。スロヴァキアからオーストリアへは豆、ジャガイモ、肉などが、オーストリアからは布、小麦粉、砂糖などが運ばれた。これらの物品には国境を通過する際に関税がかけられ、国境として輸出入の管理がされていた。商人だけでなく、季節労働者が毎週スロヴァキアとオーストリアを行き来する際に品物を運ぶこともあった[Kilianova 1992:61-62]。 第2次世界大戦以前は、このようにスロヴァキアとオーストリアの国境地域ははひとつの生活圏として機能していた。ただし、この生活圏はオーストリアとスロヴァキアの生活格差があって成立するものであったことに留意したい。この民族の境界地域において多くの人々が、スロヴァキア人が社会の下層に属しているイメージを抱いていた。チェコ人やスロヴァキア人は最下層の社会集団で、労働者や日雇いの農業労働者というイメージと結びついており、彼らは安価な労働力であった[Kilianova 1994:51]。 2.国境を越えた生活圏の再生 社会主義時代はこのオーストリアとスロヴァキア間の国境は閉ざされ、国境となったモラヴァ川にかかっていた橋は取り壊された。モラヴァ川周辺は厳重に警備され、川を越えての交流は断絶された。89年の民主化以降、再び自由に行き来できるようになったが、国境を断絶した社会主義時代がこの地域に与えた影響は大きかった。この章では、筆者が調査したオーストリア国境沿いのV村「4」 (地図2参照)における現在の状況から、国境を越えた生活圏の分析を試みる。 V村は国境となるモラヴァ川沿いの村である。社会主義時代以前は、V村の隣村のZ村からオーストリアへの橋がかかっており、その橋を通って若者がオーストリアへ小麦の刈り取りやサトウダイコンの収穫、あるいは葡萄の収穫などの農作業にでかけていた。その賃金はスロヴァキアよりも良いものであった 「5」。現在、Z村からオーストリアへの橋は再建されていないが、渡し舟が行き来しているので、川を越えてオーストリアへ渡ることは可能になった。この同じ経路を辿って現在復活したのは、農作業の季節労働者である。行き先はかつてと同じく、スロヴァキア国境付近のオーストリアで、仕事内容は作業の機械化が難しい葡萄やりんご、西洋ナシなどの果物の収穫が中心である。このような季節労働の仕事に関する情報は人々の日常生活における世間話のなかで伝達されている。ただし、オーストリアに農作業に通うのは年金生活者が中心である点が以前との相違である。他に仕事を持っている若者や中年層はこのような季節労働にはあまり従事しない。V村は首都ブラチスラヴァから20km離れている程度であり、自家用車なら20分で通勤可能であるので、住民の多くはブラチスラヴァに仕事に通っている。オーストリアに通う層は限られており、農作業以外では大工などの建設業関係者、家事手伝い、看護婦「6」 等である「7」 。 オーストリアの物価はスロヴァキアよりかなり高いが、特定の種類に買い物に限ってはオーストリアに出かける場合もある。例えば、服や靴などはオーストリアのほうが、品揃えが豊富で品質を考えると値段も高くないと考えられており、特にスポーツブランドの服、靴はオーストリアの方が安いことが多い「8」 と知られている。また日用品に関しても、大きなスーパーのセールではスロヴァキアよりも安く物が買えることが多い。さらにZ村の対岸に位置するオーストリアの村では定期的に衣料品や日用品などの市が開かれ、そこにV村から通う人も多い。このようなスーパーのセールの情報や市の日程はオーストリアで働く人を通じてスロヴァキアの村の人々に伝達されている 「9」。 ただし、V村からのオーストリアへの買い物は、頻繁に出かける人とまったく出かけない人に二極化している。主にオーストリアで働く人はオーストリアで買い物をすることが多いが、ブラチスラヴァに仕事を持つ人は、買い物も基本的にブラチスラヴァであり、オーストリアに出かけることはまずない。 「買い物はブラチスラヴァで充分だから、オーストリアまで行く必要性を感じない「10」 。」 つまり、社会主義時代の間にオーストリアと関わりを持たずに生活をするシステムは既に出来上がったため、現在は国境をはさんだひとつの地域としての相互依存性に欠けている。現在のところ、地域全体としてでなく一部の集団に関してのみ、スロヴァキア―オーストリア国境地域は生活圏として復活しているのである。 その一つの原因として社会主義時代にドイツ語が住民から失われたことが考えられる。社会主義時代以前を知らない人々にとってはドイツ語がオーストリアへ行くことの壁となる。 「大工はドイツ語がわからなくても仕事ができる。私たちの世代は学校でロシア語しか習わなかった。「11」 」 特別な技能がなくドイツ語を話せない場合、オーストリアでの仕事は農作業などの季節労働者などに限られる 。現在、スロヴァキアに仕事を持っている人にとっては、川向こうのオーストリアはそれほど必要なものではない。 ただし、同じ川沿いの村でも、民主化後に橋が再建された地域はまた様子が異なる。地図2の@のルートは橋が再建され、国境の村ではオーストリアとスロヴァキアとの間の仕事や買い物のための頻繁な行き来が復活している。スロヴァキアから仕事や買い物のために人が移動し、オーストリアからスロヴァキアへも買い物のために人が移動する[Stastny 2003b]。 それと比較すると、V村は首都ブラチスラヴァに近いことも理由となり、首都との関係のほうが重要になっている。交通網などの地理的な問題でいえば、電車でウィーンやその他の買い物ができるオーストリアの町に行こうとすると、本数が多く便利がいいのはブラチスラヴァを経由するルートでV村が国境に位置することは何らメリットを持たない。確かにZ村から渡し舟で自動車を搬送すれば、すぐオーストリアではあるが、そこは村落地域である。そこまでしなくても、ブラチスラヴァの駐車場完備の大型ショッピングセンターやハイパーマーケットまで20分程度しかかからず、大抵のものはそこで揃う。村落部に用事があるのでなければ、オーストリアは心理的に遠いものとなる。 現在のV村は国境に位置しながらも、首都に取り込まれた地域として成立している。しかし、その首都自体も国境沿いに位置しており、オーストリアとの関係も深い。したがって、国境地域の考察も村落部だけでなくもっと広い視点で捉える必要がある。さらに、現在は農業の季節労働者だけが短期の移動を繰り返すわけではなく、職業も多様化している。同じように国境に接していても、都市部と村落部とでは移動の様子が異なる。次章ではスロヴァキア全体での民主化後の大規模な「西側」への人の移動を踏まえつつ、都市部を中心にみられる新たな状況について考察する。 3.民主化後の移動の多様化 3-1 単純労働者の西への移動 89年のチェコスロヴァキアの民主化後、スロヴァキア人は西側に自由に移動できるようになった。労働市場の完全な自由化はまだ先の話であるが、社会主義時代に比べると労働許可を得れば自由に働きに行けるようになったことは重要な変化であった。 統計上では、民主化後のスロヴァキアからの移民は89年から93年までがひとつのピークであった。その後一旦90年代半ばに移民数は減少するが、90年代後半から現在にかけては、再び増加傾向にある「13」。行き先はチェコが圧倒的に多く、次にドイツ、オーストリアとドイツ語圏が続き、カナダ、アメリカ、イギリスと英語圏が続いている。 [Divinsky 2004:15-17]。 ただし、この数字はひとつの傾向を把握するために有効であるが、示すことができないものも多い。というのも、この数字は、長期滞在のヴィザを取得したことを基準にした移民の数である。別の研究によると、1992年頃、西スロヴァキアの国境沿いから正式には10000人くらいのスロヴァキア人がウィーンの工場などに働きに言っていたが、実際にはその2倍の数のスロヴァキア人が働いたと考えられている[Stastny 2003a:29-30]。さらに、中欧からの移民は数週間あるいは数ヶ月といった短い期間のみ外国で働くことを希望する傾向にあるので[Wallace 2000:605]、統計のみで現状を把握するのは難しい。 また受け入れ側のドイツやオーストリアでもトルコ、ユーゴスラヴァアや南欧からの移民労働者よりも好んで、農作業の季節労働者を東の隣国から毎年一定人数受け入れていた。なぜなら、彼らは平均的に農業労働者として熟練しているうえに、毎週末あるいは毎日母国に帰るので健康保険や社会保障を要求しないからである[Wallace 1997:25]。このように農作業手伝いや他に家事手伝いなどの個人に雇用され、なおかつ短期間の労働の場合、就労許可を取らずにパスポートのみで働きに行くことも実際のところ可能である。基本的に知人の紹介によって成立するため、オーストリアへ働きに行く人口の多い国境周辺地域では必然的に仕事の需要と供給を満たす人と人のネットワークも出来上がる。 このように民主化後、スロヴァキアから多くの人々が「西」へ移動した一方で、かつての農作業の季節労働者の往復は潜在化した。2章のような村落における民族誌的研究は、このような潜在化した単純労働者の移動の状況を把握するために有効であるといえる。 3-2労働者の二層化とその生活圏 これまで、主として単純労働者について述べてきたが、民主化以降の新たな傾向として、高学歴で知的労働に従事する人々の存在を無視することはできない。1996年の調査によると、オーストリアで知的労働に従事するスロヴァキア人の72%は首都ブラチスラヴァから毎日あるいは毎週通っていた[Kollar 2000:45, Williams 2002: 656]。ブラチスラヴァはオーストリアの国境に接しており、そのウィーンまでの通勤距離も約60kmと近いうえに、朝夕は本数も増えるので通勤は決して難しいことではない。さらに現在では、将来役に立つドイツ語を習得させるため、国境を越えて子供をオーストリアの小学校に通わせるスロヴァキア人の親も少なくない。近年ではスロヴァキアとオーストリアの国境において、短期間で往復する移動のパターンがもっとも多いと判断される[Kollar 2000:42]。 さらに現代の若年層、89年以降に初等教育を受けている世代はドイツ語の学習が可能だったため、同じ単純労働でもサービス産業への従事が可能になる。ただし一般的にドイツ語よりも英語が重要視されているため、必ずしも皆がドイツ語に堪能とは限らず、地理的に近いオーストリアやドイツに就業機会が見出せるのは、ある程度のドイツ語教育を受けた者に限られる。スロヴァキアの場合はとりわけ高等教育を受けた人が集まる首都がオーストリア国境沿いにあるという事情もあるが、89年以降のオーストリアへの移動に関しては知的労働者と、単純労働者の二層化が特徴としてあげられる。さらに、単純労働者のなかでも、国境周辺の村落の社会主義時代以前からの農作業や職人の移動と、若年層を中心にしたサービス産業に従事するための移動とに分類できる。 西スロヴァキアからは労働のための移民の70%がオーストリア、17%がドイツ、8%がチェコに行く[Stastny 2003:29-30]が、同じ西スロヴァキアでも、首都ブラチスラヴァから離れると状況が異なる。ブラチスラヴァから約80km東のK村「14」 では、多くの村人は近隣の地方小都市に通勤していた。給料の良い仕事が見つかれば、ブラチスラヴァに移り住むことも多いが「15」 、その他の選択肢としては、オーストリアではなくチェコか英語圏に就業機会を求めていた。スロヴァキア人にとってチェコ語は類似した言語である上に、幼いころから本、テレビ等を通して触れているため、ほとんどのスロヴァキア人がチェコ語でのコミュニケーションに問題はないと答える。このことからも、オーストリアとの関係が深いのはとりわけ西スロヴァキアの一部のみということが伺える。 サービス産業に従事する若年層の移動については、それがスロヴァキアとオーストリアの間のみにみられる傾向ではなく、ヨーロッパ全体に見られる傾向であることに留意したい。ただし、近年ではドイツ語圏よりも英語圏に働きに行く若年者が増加している。とりわけ夏期休暇を利用して外国へサービス業などのアルバイトに行くスロヴァキアの大学生は、英語の実践を兼ねて英語圏を希望する。イギリスに関しては、2004年5月以降スロヴァキア人は就労ビザなしで渡航・就労が可能になったため「16」 、条件も整った。もちろん賃金の良いイギリスには、ヨーロッパだけでなく世界中からも職業を求めて人が集まるため、仕事探しに苦労する場合もある。しかし、法整備と言語の点でイギリスはスロヴァキア人にとって魅力的であり、移動者の増加が見込まれる。ただし、イギリスへの移動の場合オーストリアと異なり、頻繁な行き来は不可能であるので、国境周辺でみられるような往復の移動とは性格が異なる。したがって、現在では短期の国境を越える移動は、必ずしも隣接した国への移動を意味しないという変化も見られる。 結論 第2次世界大戦前は中欧の域内では、現在の国境線を越えた人の移動を通して広く緩やかに地域としての結びつきがあった。とりわけ、現在のスロヴァキアとオーストリアの国境地域では、人々が労働市場や流通の面で民族を越えたひとつの生活圏を形成していた。ただし、主な人々の移動のパターンが往復であったので、混住はそれほど進んだわけでなく、社会主義時代の国境の断絶によって結びつきの消滅も容易であった。民主化以後、移動は自由になったが、かつてひとつの生活圏を形成していた国境周辺の村落部に、社会主義以前と同じ状況が再生したとは限らず、今のところ部分的にのみ関係が復活しただけである。 むしろ現在、国境周辺の村落部は首都の郊外として、首都と連続する一地域を形成している。その首都ブラチスラヴァからは知的労働に従事する高学歴の労働者と、言語を習得しサービス業に従事する若年労働者という新たな層が国境を越えて移動する労働者に加わった。彼らによってブラチスラヴァは民主化以後の10年強でオーストリアとの新たな関係を築いた。首都とその周辺村落をひとつの国境地域と考えた場合、かつてとは異なる、階層化した移動者によって構成される地域が再生したと考えることも可能である。 さらに、民主化後のスロヴァキアにおいて「脱社会主義」と「ヨーロッパ統合」は同時期に国家的な目標として設定されたされたため、社会主義以前の結びつきに由来する地域としての中欧とEUに由来する「ヨーロッパ」のカテゴリーが混在している。「ヨーロッパ」は「中欧」の上位概念であるのは明らかであるが、その2つの言葉が含有するイメージは異なる。 「中欧」はオーストリアとスロヴァキアの国境周辺地域のように、生活に基づいたリアリティのある生活圏に由来する概念である。同様に、かつては同じ国家だった馴染みもあり、言語の面でも問題なく働きにいけるチェコともスロヴァキアは生活圏として結びついている。しかし、その一方で、現在、イギリスへの移動はEUによって形成された経済圏としての認識に影響されて同じ「ヨーロッパ」とは想像されるものの、それは先にのべた「中欧」の結びつきと性格が異なる。今後、EUに加盟したスロヴァキアからのイギリスなどへの移動が増えることは予想されるが、労働者の移動の把握はますます難しくなる。一定期間内であれば移動は自由であるため、職業によっては正式に届け出なくても働くことができてしまうからである。言語という壁に問題がないという点では層は限られるが、「ヨーロッパ」内での中・短期の労働のための移動が増えた場合、かつての東と西の境界を越えて「中欧」より大きな「ヨーロッパ」のなかで新たな関係性が構築される可能性が予想される。 このように、社会主義時代以前にオーストリア―スロヴァキアの国境地域に形成されていたトランスナショナルな空間は、社会主義時代の断絶を超えて部分的に再生される一方、教育を受けた労働者の増加によって新たな形で形成されている。その形成された空間は今後、ヨーロッパ統合の影響によってこれまでとは異なる形で拡大の可能性を持つ。 --------------------------------------------- 「1」 ヨーロッパの「西側」と「東側」の境界線の位置については多くの議論がある。この論文では、民主化以前以後の人の移動を主題とすることから、便宜上89年以前の社会主義国を「東」と考える。 「2」 ここでは季節労働者を中心とした短期の移民に議論を絞ったが、中欧域内では永住移民の歴史も古い。ハンガリーや北部セルビアには現在まで多くのスロヴァキア人が居住している。また、単純に移動という意味では、古い記録に基づくと、1400-1530年の間にスロヴァキアから合計して1100人がウィーン大学で勉強していたことが挙げられる[Kruzliak 2001:221]が、これは仕事のための移動ではないのでここでは議論から外した。 「3」 具体的な数字を挙げると、現在の在外のスロヴァキア人はアメリカ合衆国に1900000人、ハンガリーに110000人、(旧)ユーゴスラヴィアに100000人、南米に35000人居住しているのに対し、オーストリアは21000人である[Bartalska 2001:7]。第2次世界大戦前の時代においても、1925年から1937年にかけても、チェコスロヴァキアからカナダへ35390人、フランスへ35233人、アメリカへ17024人、アルゼンチンへ9620人、ベルギーへ4154人、ドイツへ2520人が移住したのに対して、オーストリアへの移民は1180人であった[Bielik 1990:8]。後者の数字はチェコ人とスロヴァキア人の合計数であるが、現在の数字と比べても、オーストリアへの移民の数は多くなかったことが伺える。 「4」 V村は人口約2000人の村である。V村に関する記述は2004年11月および2005年3月(以降7月まで継続予定)に筆者が行った調査による。 「5」 年金生活者・男性S(1923年生まれ)とのインタビューより(2004/11/14) 「6」 看護婦は専門職という点で、他の2つと性格は異なるが、スロヴァキアからオーストリアに働きに行く人の職業として、頻繁に指摘される。また村落からに限らず、都市部からも看護婦はオーストリアに働くに行く。 「7」 村役場勤務・女性P(40代)とのインタビューより(2004/11/23) 「8」 村役場勤務・女性D(20代)とのインタビューより(2004/11/23) 「9」 村役場勤務・女性P(40代)とのインタビューより(2004/11/23) 「10」 研究職・女性T(30代)とのインタビューより(2004/11/14) 「11」 ホームペルパー・女性M(1962年生まれ)とのインタビューより(2004/11/14) 「12」 ただし、V村の事例で挙げたオーストリアに農作業に行く年金生活者のうち、幼少時にドイツ語に触れているため比較的年配の者はドイツ語が話せる場合が多い。 「13」 具体的に数字を挙げると、1990年から1993年にかけて各年平均して9756人移民としてスロヴァキアから出国し、その後1994年から1997年にかけては減少して各年平均して290人程度、1998年から2002年にかけてはまた増加が目立ち、平均919人が移民として出国した[Divinsky 2004:15]。 「14」 K村は人口約4000人の村である。この論文におけるK村に関する記述は筆者が2004年5月に行った村落における職業の変容に関するフィールドワークの記録による[Kambara 2004]。 「15」 筆者がスロヴァキアに滞在した2002年から2005年の時点では、スロヴァキアの都市部は平均的な給料に比して非常に家賃が高く、非常に給料のよい企業でなければ単身でアパートに住むことが難しい状況にあった。したがって、K村では基本的に実家から通える場所に仕事を探す傾向にあった。 「16」 正確には、就労するためのIDカードを作成することが必要であるが、以前に比べて手続きが格段に簡素化された。 参考文献 BARALSKA, Lubica 2001 Slovo na uvod In Sprievoca Slovenskym zahranicim. 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