《少数民族ルシンRusynのアイデンティティ形成についての社会学的研究 ―スロヴァキアの事例― 》
近重 亜郎
はじめに
2004年5月、スロヴァキア共和国は欧州連合(EU)に加盟した。これは資本主義の導入を選択した多くのスロヴァキア人にとって長年待ち望まれていたことのように見える。低い人件費と良質の労働力を生かして国外から投資を呼び込むことで経済発展が期待されるからである。1998年以来国政を担ってきたズリンダ政権は一貫して欧州連合加盟を唱え続け、その実現のために必要な連合側から課せられた国内の構造改革(税制、年金制度、医療制度、教育制度など)を断行してきた。その結果、ズリンダ政権は西側の信用を得ることには成功した。しかしその反面、国民の生活基盤を直撃しかねない物価の急激な値上がりや犯罪の増加など、社会不安の増大を引き起こしているのもまた事実である[1]。加えて、欧州市場の拡大がもたらす波及効果について、国内市場を支えている地場産業への影響や人材の国外流失を危惧する声もここ数年のうちに多く聞かれるようになった。この危惧を抱くのは特に若い世代に多い。また、政治・経済の首都への一極集中と、その裏返しとして国内における貧富の差、就労の機会有無などの地域格差がますます広がるのではないかと警戒する人も多い。
一方国外へ目を転じると、1950年代以来続いた冷戦体制が終結して10余年が経ち、21世紀を迎えた現在、世界情勢は調和のバランスを欠いて不安定になり、さらにはいくつかの不可抗力な潮流に押し流されているように見える。その潮流とは、例えば経済面におけるアメリカナイゼーションとも見なされるグローバリゼーションであり、民族紛争問題に見られるナショナリズム、あるいは宗教での原理主義の台頭であるように思われる[2]。こうした世界情勢の影響を受けつつ欧州連合、北大西洋条約機構(NATO)は年々東方へ拡大し、その影響力の拡大を図っている。それに伴って巷では、ヨーロッパの本義を巡る議論が盛んである[3]。一方、90年代前半のユーゴ内戦や、アフガニスタン、イラクでの国家解体後の絶え間ない地域紛争に対して起きた国際的な覇権争いにはアメリカの優位が目立ち、EUや諸外国の反発を招いてもいる。
このような状況の中、新たにNATOに加盟した中欧諸国はアメリカや西ヨーロッパ諸国との関係構築に多大なエネルギーを注いでいるが、各国の足並みは必ずしも揃ってはいない。例えばヨーロッパの安全保障問題に大きな影響力を持つウクライナと関係諸国との関係を見てみると、ポーランドの場合は歴史が古く、これまでにも様々な利害対立が生じてきた上に、近年も1994年から96年の間にかけてウクライナとの関係が一時悪化している(当時左派政権が成立し、国内産業の建て直しのためにロシアとの関係改善を優先させていた)。一方、スロヴァキアの場合、ウクライナと同様に国家が独立してから日が浅いこともあり、両国間の関係は比較的友好的である[4]。逆にハンガリーとはドナウの治水問題を巡って係争が続いている。このように隣国間の関係が必ずしも安定している訳ではないのに、国境の交わるカルパチアにはルシンRusynと呼ばれる少数民族が、他のエスニック・グループ(ポーランド人、マジャール人、スロヴァキア人など)との間に目立った反目もなく共存し、今日まで至っているのである[5]。こうした地域の安定が国家間との関係にも影響を与えているとすれば、トランス・カルパチアのルシン人と他の民族との関係について考察することは、民族問題だけではなく、政治や経済の国際関係構築や相互の交流促進の意味においても、意義深いものであるように筆者には思われる。本論文では、ナショナル・アイデンティティ形成に関するこれまでの諸研究[6]を踏まえつつ、少数民族におけるアイデンティティについて考察する。
また、一般にグローバリゼーションやナショナリズム、民族アイデンティティ、宗教対立といった言葉が原義を省みることなく頻繁に使われ、そのために誤解や齟齬を生じていることも否定できない[7]。また、各エスニック・グループの歴史的特殊性や個別性の叙述が必ず必要なために、エスニック・アイデンティティ研究の多くがエスノグラフィー研究に占められていて、膨大なモノグラフがある割に理論的研究が少なく、仮に理論化の努力がなされても、「極めて抽象的な言い古された言説に遡るだけのことが多い」[8]という学問事情を鑑み、筆者は少数民族のアイデンティティを取り扱う今日的意義についても触れると同時に、アイデンティティ形成の仮説モデルを提示したいと考える。
第1節 「ルシン」史概観[9]
まず、スロヴァキア共和国内に居住するルシンの人々の先祖について歴史的概観を述べておこう。
一般にウクライナ史と同様、キエフ・ルーシ建国とキリスト教の国教化(988年)との密接な関わりを持った、ガリツィア地方に住む東スラヴ民族の中から、現在ルシンRusynと呼ばれている人々の先祖が現われたとするのが通説のようである[10]。一方、六、七世紀頃にカルパチアに定住した南スラヴ系である白クロアチア人Bieli Chrovátiと呼ばれる人々が起源であるとする見方もある[11]。カルパチアという土地の経済的、政治的、文化的及び諸民族の発展プロセスが極めて複雑であるために、今日に至るまで決定的な根拠に基づいた定説を見出すことができていない[12]。しかし、ここではこれ以上立ち入らないことにする。
十一世紀及び十二世紀にかけてタタールの侵入に伴い、カルパチア山地に人々が定住し始めた。これは当時のハンガリー王国がドナウ平原を通じて領土を拡張させた時期でもある。マジャール人がカルパチア山地やパンノニア平原から新たにスラヴ人を連れて来て、現在の東スロヴァキアと総称されるゼンプリン、シャリシュ、スピシュ地方(ハンガリー領主の治めるジュパがあった)とトランシルバニア地方に住まわせたといわれている(特に1240年以降[13])。彼らは山地で放牧を営み、十四世紀から十七世紀の間に急速にマジャール化する。彼らは上述のようにキエフ・ルーシと深い絆があるのでルス信仰ruská vieraに根ざす正教の信者であり、ロシア語に近いスラヴ語方言(現在ルシン語と呼ばれる)を話していた。ここにルシン・エスニックの形成の起源が求められる。
最初にルシンの政治的要求が形となって現われたのは、1848年から翌年にかけて、ハプスブルク帝国内各地で抑圧されていた諸民族の抵抗運動が高まる中であった(1849年10月のルシン請願事件)。これは、ルシンというエスニック・グループの社会的認可やウジゴロドを中心に学校や役場でのルシン語の導入、また帝国内の他の場所に暮らす少数民族と同様の生活保護を受ける権利、新聞発行など出版活動への政府の財政的支援の請求等があった。この運動は若干の成果をもたらしたものの、当時一般のルシンの人々は貧しい開拓農民として困難な生活を強いられた。そうした状況が半世紀近く続いた結果、90年代から西ヨーロッパ、新大陸への移民が相次いで現われた。地元に残った者は、一層のマジャール化が進んだ。
第一次世界大戦が終結し、ザカルパチアがチェコスロヴァキア第一共和国(1918‐38)と第二共和国(1938‐9)[14]の領土の一部に編入された後も、ルシンの居住地域は経済的にも社会・文化的にも他の地域に比べて発展が遅れ、近代的な工業も興らず取り残された。これは両大戦間期にスロヴァキア人一般の政治的・社会的・文化的地位が大きく向上したこととは対照的である。ルシンの一部は小規模な商い、木材加工業、炭焼き、水車による製粉業、蒸留所での造酒業などの仕事に従事したが、大半は農業従事者であった。また失業率も高かった。
この時代には三つのエスニック・グループが形成されていった。即ち、ロシア系、ルシン系、そしてウクライナ系である。このうち最も顕在化したのはルシンである。彼らはギリシア・カトリック(ユニエイト)[15]の精神に支えられた。1930年、ウクライナ系住民がウジゴロドに本拠地を置くProsvita協会の支部をプレショウに作った。この協会はSlovo narodaと名づけられたウクライナ語による新聞を発行したが、当時、チェコスロヴァキア政府は「ウクライナ人Ukrajinec」や「ウクライナのukarajinský」というような呼称の使用を禁じていたために、彼らにとって呼称問題は重要な政治問題となった[16]。また、1933年にはやはりウジゴロドに本部のあるドゥフノヴィチ協会Obshchestvo
Im. Aleksandra Dukhnovichaの支部が自主運営という形で当該地域全体をカヴァーすべくプレショウに設置された。そしてRusskie dniとして知られるルシンのマニフェストを発表した[17]。
こうした文化団体の設置が相次ぎ、ルシンやウクライナのアイデンティティ昂揚の試みがなされたにも関わらず、特に初期のウクライナ回帰への運動は一般には広まらず、活動の中核も少数のインテリゲンツィアに限られるに留まった[18]。
軍需景気によって経済的繁栄がもたらされたといわれるスロヴァキア独立国時代(1939 - 45)においても、ルシン(あるいはウクライナ)人が置かれた経済的・社会的状況に変化の兆しは見られなかった。しかし、1945年プレショウで東スロヴァキアに住むウクライナ系住民の第一回代表者会議が開催され、同年3月1日、プレショウ地方議会の共産主義者たちの働きかけによってプレショウ・ウクライナ民族評議会Ukrajins’ka narodna rada Prjašivščynyが発足する。これは政治組織で、東スロヴァキア在住のルシン・ウクライナ人の政治的・経済的・社会的及び文化的地位の向上を目指すとしている。また、ウクライナの名を冠した組織はこれが初めてである[19]。またこの時期にはロシア語による新聞や機関誌(Prjaševščina,
Demokratičeskij golos, Kolokoľčik〔ウクライナ語の付録Dzvinočokが付く〕, Kosťorなど)が発行されている。特に文化面で大きな貢献をし、1946年にはウクライナ民族劇場の開設により、数多くの演目がロシア語で上演された。ルシン居住村落にあった学校のほぼすべての教室で、ロシア語による授業が行なわれた。東スロヴァキアでは共産党が支持を集め、とりわけ1946年の選挙ではプレショウ地方でルシン人選挙民の46,1パーセントの票を獲得している。もう一方、ルシン・ウクライナ党(Rusko-ukrajinská
sekcia)を含む非共産党の民主系諸政党の連合体[20]は50,5パーセントの票を獲得した。しかし、1948年にルシン・ウクライナ党は民主連合体を脱退して共産党へ合流した[21]。ウクライナ民族評議会は、全ルシンの代表たるべき政体として中央へ影響力を強めようとするが、この要求は1947年になるとスロヴァキア国民評議会Slovenská
národná radaによって拒否される。これはルシンの人々が新生チェコスロヴァキア第三共和国で集団の自治や政治的身分を持たないことを意味した。
この頃から次第にルシンを取り巻く社会状況は厳しくなって行く。まず、1950年にギリシア・カトリック教会の活動が禁止された(帰一教会は正教会への帰順が政府によって強制された)。さらに上述のウクライナ民族評議会は1951年に分裂し、チェコスロヴァキア政府の肝いりで、チェコスロヴァキア・ウクライナ労働者文化協会Kuľturnyi
soiuz ukraïns’kykh trudiashchykh ČSSRとして再出発する。これは完全な非政治組織であり、様々な文化活動を支えた[22]。その主目的はマルクス・レーニン主義の考え方に基づいて民族問題を解決するため、「ウクライナの労働者に国民意識と誇りを与え、偉大なるソビエト・ウクライナ人に属すること、そしてチェコスロヴァキアの社会主義者的愛国心とプロレタリア国際主義の理想を理解することについての認識を広める」ことであった[23]。その結果はルシン定位の人々をウクライナ人として統合することであった。そして、翌年よりルシンというエスニック・グループは公式には存在せず、すべて「ウクライナ人」とされるようになった。学校では正字法としてウクライナ語が導入され、また、「ウクライナ人」としての自覚を促すために、プレショウ地方の優秀な若者たちはソビエト・ウクライナに送り込まれ、キエフで教育を受けた[24]。こうしてルシンの《ウクライナ化》が促進された。60年代はルシン人とウクライナ人同士の関係に変化が生じた時期でもあった。これには都市化、諸民族間での結婚の増加、同化傾向など社会構造そのものの変化と共に顕在化したのであった[25]。1989年になるまで、ルシン意識の強い一部の人々によって幾たびか抗議運動が起きたり、ギリシア・カトリック教会が地下活動を通して抵抗を試みるなど、ルシン・アイデンティティそのものが潰えることはなかった。マゴッチに拠れば、1968年「プラハの春」までの社会改革気運の中で、第二次世界大戦以来、チェコスロヴァキアでは他の少数民族に比べて良好な暮らしをしていたにも関わらず、ルシンの人々もチェコ人やスロヴァキア人と同等と見なすよう要求するなどの動きがあった[26]。ウクライナ労働者文化協会の週刊紙「新生」Nove žyttja上は、ルシンの政治的、経済的、文化的自主性に関する様々な要求で占められた。しかしプレショウ地域の自治という考えは、スロヴァキアのいかなる部分も特別な地位を持つべきではないという一般的なスロヴァキアの信念に対しても、また、中央集権支配という共産党の原則にも反していたため、ルシンの政治的領域での運動は具体的な成果を上げることはできなかった。一方、その代償として1968年6月には50年以降禁止されていたギリシア・カトリック教会が再び合法化された。しかし、正教会とは礼拝に使用する教会の取分けを巡って、またスロヴァキア人聖職者とは言語使用の問題や司教の配属を巡って混乱が生じ、さらには東方教会そのものの帰属問題(正教会側かギリシア・カトリック教会側か)が生じた[27]。こうした混乱状況の中、ギリシア・カトリック教会はルシン・アイデンティティ統合に対して自身の歴史的役割を果たすことが出来なかった。70年代、80年代はルシン・ウクライナ両エスニック・グループともに、一方では経済・文化・社会的諸条件の改善からは取り残されたが、また他方ではエスニック、言語、歴史的発展の共有という側面からスロヴァキア人との一層の統合プロセスの深化をみた[28]。
第2節 1990年代以降のルシン(「脱ウクライナ」の動き)
以上、東スロヴァキアのルシンについて見てきた。特に戦後の社会主義時代の四十年間は、ひとことで言えば「ウクライナ化」の時代である。しかし体制が変って社会主義ブロックの框から突然解放された90年代になると、ルシン・アイデンティティにも新しい動きが見えてくるようになる。即ち、ルシンの「脱ウクライナ」化である[29]。このことはルシン・アイデンティティが、ダイナミックな社会的変動に巻き込まれるようになった地域社会といかなる文脈で関わるのか、あるいは、ルシンというアイデンティティそのものの価値はいったいどこに生ずるのか、ということに嫌がうえでも関心が移ることを意味する。
ここで具体的な統計資料に基づいて人口動態(表1)に注目する。
人口調査実施年月日 |
スロヴァキアの総人口(人) |
ルシンの人口(人) |
% |
ウクライナ人の人口(人) |
% |
1910年12月31日 |
2 918 824 |
|
|
|
|
1921年2月15日 |
3 870 000 |
|
|
|
|
1930年12月1日 |
3 324 111 |
|
|
|
|
1950年3月1日 |
3 442 317 |
|
|
|
|
1961年3月1日 |
4 147 046 |
|
|
35 435 |
0.9 |
1970年12月1日 |
4 537 290 |
|
|
42 238 |
1.0 |
1980年11月1日 |
4 991 168 |
|
|
36 850 |
0.7 |
1991年3月3日 |
5 274 335 |
17 197 |
0.3 |
13 281 |
0.2 |
2001年5月26日 |
5 376 455 |
24 201 |
0.4 |
10 814 |
0.2 |
人口調査実施年月日 |
ルシン・ウクライナ総人口(人) |
% |
1910年12月31日 |
96 528 |
3.4 |
1921年2月15日 |
88 970 |
3.0 |
1930年12月1日 |
95 783 |
2.9 |
1950年3月1日 |
48 231 |
1.4 |
1961年3月1日 |
35 435 |
0.9 |
1970年12月1日 |
42 238 |
1.0 |
1980年11月1日 |
36 850 |
0.7 |
1991年3月3日 |
30 478 |
0.5 |
2001年5月26日 |
35 015 |
0.6 |
表1.「スロヴァキア領内のスロヴァキア人、ルシン人、ウクライナ人の各人口動態」[30]
この表から明らかなことは人口増減が国家の成立、解体、あるいは政策の変化と連動して起きていることである(例えば「ウクライナ人」の増加がルシンのウクライナ化政策の現われであるし、その後1980年までにルシン、ウクライナ人口が減少しているのもスロヴァキア人との同化が進んだ現われと思われる)。
「ルシン」を固有のナショナリティ、あるいはエスニック・グループとして認めることが出来るか、という議論は、今のところ結論を見るまでに至っていない[31]。ルシン定位であるマゴッチ自身もこの議論に対して、結論として明確な態度を示すのを留保しているように見える。彼によれば、スロヴァキア共和国内に推定13万人の「ルシン人」がいるとされる[32]。さらに、ルシン研究者の中にはウクライナ定位の学者や両者とも異なる中間に定位する学者もいるので、三者がそれぞれの立場に立って異なる見解を述べ合い、本当のところは正確なルシン人口を把握することができないでいる。
ただ確かなことは、国内のマイノリティは人口規模が大きければ大きいほど、それだけ多く政府から財政援助を受けることができる[33]。国家の少数民族対策の変化も人口増減の大きな要因である。従って、体制が変わり政府に向けて自由に政治的要求を発したり、社会・文化活動を行なうことができるようになった時から、ルシンの人口が増えたのも当然であろう[34]。
しかし、この人口増加が必ずしも脱ウクライナ化の促進、ルシン定位集団の増大をすぐに意味するものでないことは、この後でより詳しく検討する。
第3節 第三者から見た「ルシン・ウクライナ」について
前節で、東スロヴァキアのルシンのアイデンティティに関して脱ウクライナの傾向について言及したが、それはルシン定位に強く依存している人々、即ちルシン意識の高い人々pro-Rusynの問題であることに注意しなければならない。彼らの多くは、文化団体やルシン国際会議等のルシン関係組織と積極的に関わっていり活動している人々である。一方、東北スロヴァキアのルシン居住率の高い地域にいるスロヴァキア人やルシンの一般の人々は、自分と他のエスニック集団の相互関係をどのように考えているのか。
スロヴァキア人との関係について、次のような指摘がある[35]。
スロヴァキア科学アカデミー社会科学研究所(コシツェ)によって2000年6月から9月にかけて実施された調査の分析によると、1991年の国勢調査結果に基づいてサンプリングされた「(全国の)スロヴァキア人」、「ウクライナ人」、「ルシン人」、「北東部在住のスロヴァキア人」各200人の回答者に、《あなたは現在「ルシン人(ウクライナ人)」、「ルシン‐ウクライナ人」、「ルシン人」/「ウクライナ人」と呼ばれている少数民族をどのようにお考えですか。1.ひとつの少数民族、2.それぞれふたつの独立した少数民族、3.スロヴァキア人のことだと思う。》という質問をしたところ、回答者の全体のおよそ六割(59,4%)がルシンとウクライナ人をひとつの少数民族、また三分の一以上(35,8%)の回答者がふたつの独立した少数民族と考えており、スロヴァキア人と見なした回答者はわずか4,8パーセントであった。回答者のうちウクライナ人は七割(72,7%)がルシンとウクライナ人をひとつの民族とし、一方、ルシン人の回答者のうち、ふたつの民族説を支持するのは四割(43,2%)いるものの、過半数(54,8%)がウクライナとひとつの民族と見なしている。「全国のスロヴァキア人」は、六割(60,4%)がひとつの民族説を支持し、ふたつの民族説を採るのは36,6パーセントであった。また、「北東部在住のスロヴァキア人」の場合、五割(50,0%)がひとつの民族説、四割弱(37,9%)がふたつの民族説を支持しているが、さらに面白いことに、同じスロヴァキア人だと見なす人々が1割(12,1%)いて、この項目については他の回答者との違いが際立っている。
この結果に関して、スロヴァキア人、ルシン人、ウクライナ人の相互関係について、少数民族の権利主張を巡ってルシンとウクライナ人の間に問題があるとしている[36]。そして、マジョリティのスロヴァキア人とは双方共に良好な関係を保っておこうとしていることが窺われる(図1)。
ルシン系住民 ウクライナ系住民
スロヴァキア人
図1.マイノリティ社会とマジョリティ社会の相互関係[37]
第4節 ルシン・アイデンティティ問題の今日的意義
次に、1990年代に始まった「ウクライナ‐ルシン」人から脱ウクライナ化の動きを実証的に検討することにしよう。その方法として、エスニック・アイデンティティの成立、即ちエスニック・グループの形成に不可分のように考えられる要因を揃えて、それをルシンの事例に適用する。そして矛盾や反証となるものがあるかどうか確認する。
まず、エスニック・マイノリティについての一般の定義を確認しておきたい。国連は1985年にマイノリティを以下のように定義した。即ち、「ある国家内で被支配者の立場にあって相当数の人口を擁し、エスニック、宗教、あるいは言語的性格によって他の大半の住民とは区別され、また、相互に明確なあるいは暗に示された連帯感を持ち、現実的にも法的によってもマジョリティの住民と等しい立場となることを目指す集団的な願望を有する集団」としている[38]。
この定義に従ってルシンを見るならば、次のように特徴づけることができる。ルシン人とは《スロヴァキア共和国内で全人口の0,4パーセントを占めており、その宗派はギリシア・カトリックで、ルシン語かウクライナ語を話す東スラヴ系の人々》である。ここでは2001年10月に行なわれた世論調査からルシンに関係するデータ[39]を検討する。
言語については、自らを「ルシン人」として回答した17人[40]のうち、5人(3人に1人の割合)がルシン語を話すとしている。これは、全回答者(1,265人)のうち、106人(約8,4パーセント)がルシン語を話すと答えていることとあわせて考えれば、少ないといえるだろう。この中にはルシン語を解するけれども、自らルシン・アイデンティティを持っておらず、ルシン以外の民族籍(例えばスロヴァキア人として)を申告した回答者が含まれていることが考えられる。逆に非「ルシン人」のうち、ルシン語が判ると答えた人たちもこの中に含まれていることも十分に予想される。
さらにルシンとウクライナ人の「母語」に関する人口動態を巡っては、次のような興味深い指摘がある。
「(引用者補注:2001年の国勢調査では)ルシン語を母語とする54,907人の住民のうち、実に28,885人がスロヴァキア人として申告している。そして22,751人がルシン人と申告している。そして2,996人がウクライナ人である。その一方、ウクライナ語を母語とする人々は、最大6,340人がウクライナ人と申告しているに対し、スロヴァキア人は1,342人、ルシン人はわずか83人である」[41]
ここで問題になるのは、ルシン語を母国語にする人々の半分以上がスロヴァキア人と申告していることである。これは何を意味するのだろうか。人口動態からは推測できなかったことである。
もうひとつ、宗教について回答者の宗派を見てみると、ローマ・カトリック信者1名、ギリシア・カトリック信者が8名、残り8名が正教徒である[42]。
このようにしてみると、ルシンというエスニック・アイデンティティは必ずしも、言語や宗教のみによって明らかに出来るものではないことが判る。
それでは一体何が人々を「ルシン」足らしめているのだろうか。換言すれば、人々をひとつに統合せしめる要因は何か、ということになる。この点について、スミスの検討によると、《記憶・象徴・神話・伝統》[43]、さらに詳しく見れば、ネイションの歴史的原型(エスニック共同体ethnie)の構成要素は「1.集団に固有の名前、2.共通の祖先に関する神話、3.歴史的記憶の共有、4.単独あるいは複数の集団に際立った特徴の文化の共有、5.特定のホームランドとの共通の思い入れ、6.集団を構成する人口の主な部分に存在する連帯感」であるという[44]。
しかしルシンの場合、第一節で見たように、スミスの指摘する要素はどれも歴史的確証に欠け、確証に乏しいまま探索を続けてきた歴史そのものが彼らのアイデンティティだともいうことができる[45]。スミス自身も《マケドニア人やルテニア人といった、エスニック的にみて混合した地域やカテゴリーの場合には、その記憶の大部分がほんの少し前のものにすぎず、そのためスロヴァキア人とともに、過去を深く掘りかえして、系譜上のつながりと、かすかにみえる過去の英雄を探しあてなければならなかった》[46]と述べている。従って、スミスの提示するインディケーターはここでは直接、ルシンに当てはめることはできない。
もうひとつ重要な問題は、今後ルシン・アイデンティティが何を志向していくか、ということである。90年代以降は一般に脱ウクライナの傾向が読み取れる。しかしその傾向は即、ルシン・アイデンティティの結束と強化を意味するものなのだろうか。同時に脱ルシン化も起きているとすれば、どうだろうか。この傾向を少数民族のアイデンティティ・クライシスとしてではなく、新しい価値観に基づく新たなルシン・アイデンティティの誕生と見なすことはできないだろうか。あるいはルシンというひとつのエスニック・グループの統合よりも、人々の関心を引寄せるものが他にあるのだろうか。
筆者はルシン・アイデンティティの「脱ウクライナ」「脱ルシン」の動きを、次のふたつのフェーズから捉えようと思う。ひとつは〈グローバリゼーションglobalization〉であり、もうひとつは〈地域主義regionalism〉である。図2は、ルシン・アイデンティティの探索が外的状況の変化に応じて方向性を変えた1990年前後をエポックとして描いたイメージである。
1989年以前
•
共産主義政権下の抑圧された
エスニック・マイノリティ 脱ウクライナがテーマ化
• ギリシア・カトリック教会の弾圧 ルシン・アイデンティティへ
• ウクライナ化
1990年以降
大状況 小状況
政治・経済・文化の変化
スロヴァキア共和国の欧州連合加盟 地域レベルの経済・文化交流
「スロヴァキア人」としての ルシン・ウクライナ人としての
ナショナル・アイデンティティ エスニック・アイデンティティ
《復興》
外的世界との接触の機会が増える 〈地域主義regionalism〉
受益者:若い世代のルシン人 受益者:pro-Rusynの人々
図2.ルシンを取り巻く〈グローバリゼーション〉状況と〈地域主義〉
スミスに拠れば、外的状況の変化は「ポスト・モダンのグローバル文化」[47]によるのだという。これまでの「文化帝国主義」は、エスニックな時間と場所とに限定されたものであったのに対して、新しいグローバル文化は、場所と時間に既定されず、折衷的で動的なものである。中欧諸国にも浸透しつつある「ポスト・モダンのグローバル文化」というのは新しくて影響力のある価値観を次々にこの地域に持ち込んでくる。そしてそこの住民は古い価値と新しい価値のせめぎ合いに否応なしに巻き込まれる。このような文化が圧倒的に時代の趨勢になりつつある今日、ここで我々が取り上げるエスニック・アイデンティティはどのようになるのだろうか。帰結としてアイデンティティ・クライシスと文化アノミーをもたらすのであろうか[48]。
ルシンの場合、図2にも示したように、ベクトルの異なるふたつの潮流(大状況〈グローバリゼーション〉と小状況〈地域主義〉)の中で二極分化していることが考えられる。先に触れたスロヴァキア科学アカデミー社会科学研究所の調査によると、@1993年以降、ルシンやスロヴァキア人はナショナリティの発展に好転の兆しを感じる人々と、何も変らないと感じる人々とに意見が分かれるが、ウクライナ人だけはむしろ共産主義時代に優遇されていたことと比較して、現状を評価しない傾向がある、A将来、ルシン(ウクライナ人共に)がスロヴァキア人に同化していくだろうと予想する人たちと、現状を維持するだろうと予想する人たちに意見が分かれるものの、ルシンが固有の民族となると考える人はルシン人自身が一番少なかった[49]。個人的な体験談になるが、筆者が会った若い世代のルシン人(特に男性)の多くが自分を「スロヴァキア人」(あるいは「シャリシュ人」)であるといい、就職先や転職先を首都や国外(カナダ、アメリカも含む)に求め故郷を離れている。そしてそのほとんどは、時期が熟したら必ず帰郷するつもりだという。一方、ルシン意識は東スロヴァキアにいるpro-Rusynの人々、特に知識人の間でむしろ強まっていく(脱ウクライナ化の傾向が一層顕著な近年のフォークロア祭Makovyts’ka
Sturnaやルシン国際会議など)。
この二極分化の間接要因として考えられるのは、グローバリゼーションである。ギデンスはグローバリゼーションがローカルな文化的アイデンティティの復興を促すと指摘している[50]。またさらなる要因として、「EU接近のパラドックス」[51]が考えられるのではないだろうか。ナショナル・アイデンティティの一元化を図りながら成立した国民国家志向の中欧諸国がEUに加盟すると、今度は国内マイノリティの保護に乗り出さなければならない。『EU加盟の意義を感じられないマジョリティ側民衆は、指導者層が加盟実現のため、マイノリティ保護を言い、後者へ「譲歩」することに不満を募らせ』[52]ているのは、スロヴァキアの場合、ことにロマ保護政策[53]に対する白人の反応にその典型を見ることができる。スロヴァキア人と同じ白人のルシン人の場合、ことさら事を荒立てて自分たちの権利主張をせず、むしろ大状況の変化に順応し、生き延びる方策を見つけるのではないだろうか[54]。ルシンの若者の中にはマイノリティとして保護の対象として授かる利益よりも名実共にスロヴァキア国民となって、より多くの利益を享受する方を選ぶものが多い。従って、ロマやハンガリー系少数民族の場合とは異なって、これまでのところ、ルシンが一部の民族主義的政治家の攻撃の対象にされたことはない。
これまで見てきたようにルシンの脱ウクライナ化の動きも、それが大きな政治問題にまで発展することはめったにない。スロヴァキアの国内では、ルシン問題は一般にあまりよく知られていないのが現状である。全人口の九割に当たるルシン・ウクライナ系住民がプレショウ地方に集中して居住しており、全国規模の話題になりにくいからである。メディアが取り上げるのはごく稀で、例えば、2004年1月9日付けの日刊SME紙に、メヅィラボルツェ市にあるアンディ・ウォーホール美術館(旧市立文化会館)の移転問題が報じられたり、ニュースでルシン国際会議について報道されることがある程度である。主として文化に関して話題になることが多い。また2003年には、エスニック・マイノリティ向けの放送を流していたスロヴァキア国営放送テレビ局(STV)とスロヴァキア国営ラジオ局(SRo)のうち、ラジオ局がプレショウにあるスタジオを廃してコシツェ市へ移転させる決定をした際に、これに抗議して21,000人の市民が署名活動に参加した。近年で目立った「事件」といえば、この抗議運動である。
ところで、この署名活動に参加した市民の中には多数のスロヴァキア人も含まれている。プレショウ市内で行なわれるルシンの催し物には、ルシン人、ウクライナ人の他に、一般のスロヴァキア人も足を運ぶのが通例である。従って、既に第3節で見たように、ルシンやウクライナ系住民、スロヴァキア人住民との間には隣人としてというよりもむしろ仲間意識が高いことが裏付けられよう。
このことを考えるとルシン人のみならず、ウクライナ人、またスロヴァキア人やハンガリー人たちがカルパチア地域において、相互に重層的な共存社会を構築していることが、彼らのエスニック・アイデンティティ(敷いては本人のアイデンティティも含め)形成に影響を与えているといえるのではないだろうか。さらにルシンの場合、かつて歴史上自分たちの国家を持ったことが一度もない。しかし彼らは現実世界を受け入れ、その上カルパチアに独自の越境的世界、即ち《ルシニア》という架空の共同体感覚を生み出している[55]。彼らがルシニアという名を口にする時、それは誇りであり土地に対する愛着の表現なのである[56]。
スロヴァキア人の民族アイデンティティは対ハンガリー、チェコ人のそれは対ドイツであるなどというように「対抗意識」としてのアイデンティティであるのに対して、ルシン・アイデンティティを育む要因は一体何か。ウクライナ人の立場からみたルシンの定義は「スロヴァキアやポーランドに住むウクライナ人の下位集団」となる。この定義はルシンから必ずしも全面的に支持されない。彼らは固有の言語を持ち、ウクライナ人とは異なる生活文化を持っているからである。かといってウクライナに対抗して自らのエスニック・アイデンティティの高揚を叫ぶほどアグレッシヴでもない。それは上に見たように、基盤とする生活世界が国境とは関係なく構成されているからである。つまり、国家アイデンティティ(制度化されたナショナル・アイデンティティ[57])とは本来結びつき難い条件の中で生活していることになる。従って、彼らは「ウクライナ人」とか「スロヴァキア人」といって一纏めにされると、ある種の違和感を覚える。ところが「ルシン‐ウクライナ人」(このハイフンが微妙な役割を果たしている)とすると落ち着く。
ルシンやウクライナの人々が自己のアイデンティティを形成し、ナショナリティを選択する経緯は社会状況や政治状況に左右されやすく、また、それは極めて「状況選択的」[58]であるといえる。
第5節
アイデンティティ形成のプロセスについて
これまで進めてきた議論を整理する。
ここで筆者はルシンの事例を参考にして、エスニック・アイデンティティと個人のアイデンティティの関連について、次のようなモデルを提示したい。筆者の仮説モデル(これをアイデンティティ形成のヘリックスモデルhelix modelと命名する)は三層構造になっている(図3)。
《アイデンティティの三層構造》
a)集団形成のアイデンティティ
主体的レファレンス集団の選択
b)文化保存のアイデンティティ
言語、宗教、教育
c)環境順応のアイデンティティ
生活・経済活動、ローカル・アイデンティティ
図3.アイデンティティ形成のヘリックスモデル
このモデルはイメージとして三角錐を思い浮かべると分かりやすい。即ち三角錐の底辺がc)「環境順応のアイデンティティ」であり、上部に向かってb)「文化保存のアイデンティティ」が、そして三角錐の頂点に近いところへa)「集団形成のアイデンティティ」がそれぞれ位置するものとする。結論から述べると、個人のアイデンティティは、この三角錐の各ステージ、即ちc)、b)、a)の間を、周囲の環境の変化に応じて螺旋状に行き来するうちに、似たもの同士が集合しはじめ、さらにその集合的アイデンティティと個人のアイデンティティが相互補完的に関わっていくうちに、ひとつのエスニック・アイデンティティが漸次的に確立されていく、ということである。
従来のアイデンティティ形成モデルと異なるのは、三層が単に垂直になっているのではく、頂点に向かうほど意識が先鋭化し、三角錐の底辺に向かうほど外的世界に目が開かれるということを、このモデルは表している点である。
これをルシンの場合に当てはまると、次のようになる(図4)。
a) Rusyn 顕在化
Rusynophiles[59]
b)言語:Rusyn語
宗教:ギリシア・カトリック、
ローマ・カトリック、ウクライナ正教
c)“Rusinia”、トランス・カルパチア、スロヴァキア…
方言、民謡、土地への愛着(ローカル・アイデンティティ)
図4.ルシン・アイデンティティ形成のイメージ・モデル
ここでさらに各段階を分析すると、次のようになるだろう(図5)。
c〉→
b〉 『ルシン‐ウクライナ』
b) →
a) 「脱ウクライナ」化
図5.《個人のアイデンティティ形成》への影響
図3と図5を合わせて見ると、c) →
b) → a)→ b) 抽出されたルシンのアイデンティティ強化、即ち宗教と言語によるルシンの再定義(この場合は「ギリシア・カトリック」と「Rusyn語」)と再強化された「ルシン定位とルシン意識」pro Rusynに至るまでのプロセスを見出すことができる。
複数エスニシティの混住地域におけるアイデンティティの複雑な再編過程を考える上で、このモデルは有効ではないだろうか。
スミスは、近年のエスニック・アイデンティティや民族問題についての研究が進む中で、人々の心理の深層に潜む社会意識そのものについて十全な検討と議論がなされていないと述べている[60]。筆者はスミスのいう社会意識social consciousnessを、人々の帰属意識の問題として注目したい。ある特定の人々におけるアイデンティティ形成の過程を分析し、それに照らし合わせて従来の民族問題に関する言説を再検討することで、ゆくゆくは、多民族社会における共存の原理にまで言及することができるのではないか、と考えるからである。例えば、90年代初めのユーゴ内戦は、エスニックや文化アイデンティティを巡る争いではなかった。そうではなくて雇用機会や富の分配、政治的権力の行使に対する不平等を巡っての権利主張が原因であったという[61]。不平等を引き起こした背景にエスニックや文化アイデンティティの違いがあるということはできるが、その要因が制度と利害関係に結びついた時、衝突が起るのである。異なるエスニックや文化の共存symbiosisは可能なのである。東スロヴァキアのルシン、ウクライナ、スロヴァキア、ハンガリーの諸民族が長らく抗争もなく、今日まで暮らしてきたのはその好例と見なすことができるだろう[62]。しかしこれは結果論であって、社会意識あるいは集団帰属意識としてのアイデンティティ形成と共生原理との相関関係については依然、何も明らかにはなっていない。
さらにスミスは以下のように述べている。
『歴史家はナショナリズムの出現を、初期のポーランド分割(アクトン卿)、アメリカ独立戦争(ベネディクト・アンダーソン)、英国革命(ハンス・コーン)、フィヒテの1807年の『ドイツ国民に告ぐ』(ケドゥーリ)のうちのいずれに特定すべきか議論しているが、そうした論争からは、ナショナリズムについて異なった定義があることはよくわかっても、その出現の時期についてはたいして教えてくれなるものはない。もっと重要なのは、そこでは言語―と―象徴性、意識―と―熱望としてのナショナリズムを、懐胎し熟成させるのに必要なもっと長い期間について、無視されていることである。』[63]
このスミスの見解は、《固有の「民族」を成立せしめる諸条件はいったい何であるか》という古典的な疑問をも補足的に説明し得るものである。民族感情と、言語、宗教の連関性は明らかである。しかし問題は、ナショナル・アイデンティティや少数民族のエスニック・アイデンティティを言語と宗教、伝統、エスニック・グループの諸属性からだけで規定してしまって良いのかどうか、ということである。
絶え間ない社会環境の時間的空間的変化も個人やエスニック・グループのアイデンティティ形成に影響を与える重要な要因として無視できない[64]。宗教や言語は必要条件ではあるが、絶対条件ではない。
ある宗派の伝播には、共通の言語が必要条件であり、その結果、共通の言語空間を土台に「絆」としての民族感情が生まれ、そうした長い潜伏時間のうち次第に明確なナショナル・アイデンティティへとその姿を変えていった、と見る方が自然である。国家というものはそのようなナショナル・アイデンティティに正当性を与え、制度化してゆく装置にほかならない。ポミアンの指摘に従えば、ナショナル・アイデンティティはルター派が主流となったドイツ、スカンディナヴィア、あるいはカルヴァン派の牙城ジュネーヴまたはフランドル、英国国教会などが主流となったイングランド、スコットランド、つまりドイツ語、フランドル語、英語圏で先鋭化したという。つまり当該地域では言語と宗教が互いに依存し合っていたのである。以上の説明から、それ以外の諸地域(例えばハンガリー王国北部のスロヴァキアなど)では19世紀まで「民族の覚醒」を待たなければならなかった理由は明らかであろう。ルシンの場合も後者の例にあてはまると考えられる。
言語と宗教の框から離れたところでもアイデンティティを形成していることがある、というのがルシンのケースなのである。また、彼らを対象にすることで、スミスが問題にしている「ナショナリズムを、懐胎し熟成させるのに必要なもっと長い期間」の具体的な姿が見えてくるということなのである。
まとめ
国家という框の中で、言語や宗教などを通して制度化されたナショナル・アイデンティティとは異なり、エスニック・アイデンティティは、環境の変化に呼応する可塑性に富んだものではないだろうか[65]。そして、そこには個人のアイデンティティ形成との深い相関性が見られるというのが、ルシン・アイデンティティの形成過程を追っている筆者の主張である。個人のアイデンティティは、ルシンの場合、信条credoである。
ルシン・アイデンティティの代弁者であるアレクサンデル・ドゥフノヴィチ[66]は次のようなアンソロジーを残している。
Ia Rusyn bŷl, esm’ y budu. わたしはかつて、今も、そして今後もルシンである[67]。
ルシンの人々は歴史の大部分を抑圧された貧しい生活者として暮らしてきた。しかし、いつも歴史の潮流には逆らわずに柔軟に対応して生き抜いてきた。今後も目まぐるしく変化する世界情勢の中でも、同じスタンスを基本的に崩すことはないであろう。スタンスを変えてもそれは一時的なものであり、彼らの意識の深層には絶えずルシン・アイデンティティが存在している。「純ルシン」たることを明確に意識している人たちよりも、「日常文化的ルシン人」たろうとする一般の人々の方が多いと見られるのも、彼らのアイデンティティが社会環境の変化に対して非常に寛容で、柔軟だからだということができるだろう。そして対応の柔軟さによって、ルシンの人々は長らく他の民族と共存しながら、自分たちのアイデンティティを維持し続けてきたのである。ここに一種のパラドックスがあり、マイノリティが生き残る方法ではないだろうか。そのような柔軟さを培ってきたのが、もし彼らのアイデンティティ形成のあり方にあるとすれば、我々も彼らの生き方から学ぶことがあると思う[68]。
しかし、ルシンの住民が暮らす社会状況に彼ら自身が満足しているわけではないことを忘れてはならない。本論文では触れることのなかったルシンのディアスポラ(離散)について無視することは許されないであろう[69]。スロヴァキアは先にも述べたように、政治・経済・社会一般がすべて動態期にあり、東スロヴァキアにも欧州連合加盟後に何らかの変化が訪れるであろう。その具体例として、カルパチア・ウクライナとポーランド、スロヴァキア、ハンガリーとを分断する「シェンゲンの壁」[70]が現実のものになれば、東スロヴァキアにいるルシンの人々の《ルシニア》像も大きく変わるかもしれない。
筆者は、スロヴァキア共和国が欧州連合に加盟する前の五年間を実際に当地で観察してきたが、加盟後に予想される変化については、今後五年、あるいは十年ほどの長期的視野でもって継続的に注視しなければ分からないであろう。
また、ルシンのようなアイデンティティの確立の仕方が、果たして常に他者との共存共立に有効であるかどうか、事例に基づく実証的検証にまで立ち入るだけの準備が、筆者にはまだ十分できていない。東スロヴァキアに多く住んでいるロマの人々と他のエスニック・グループとの関係についても一言も触れていない。その意味で本論文は試論の域を出るものでなく、従って人間のアイデンティティの根源を探る長い道程の、ほんの出発点に立っているだけに過ぎない。いずれも今後の考察に譲りたい。
追記。本文中のウクライナ語による固有名詞や単語はすべてアルファベットで書き改めてある。その際、表記はMAGOCSI, P.R., POP, I. 編
ENCYCLOPEDIA OF RUSYN HISTORY AND CULTUREを参照した。
[1] 詳細は、KOLLÁR, M., MESEŽNIKOV, G.(ed.) 2003.: SLOVENSKO2003,
Inštitút pre verejné otázky, Bratislava.参照。
[2] 例えば、GIDDENS, A. 2000.:RUNAWAY WORLD, How
Globalization is reshaping our lives, Routledge, New York.を見よ。
[3] 例えば、クシストフ・ポミアン、松村剛訳『ヨーロッパとは何か』平凡社、1993年。包括的なヨーロッパ拡大の議論については2000年4月に立教大学で開催された公開ワークショップ「ヨーロッパ統合のゆくえ――その深化と拡大において問われているもの」での報告、議論とその報告書、宮島喬・羽場久 子編『ヨーロッパ統合のゆくえ 民族・地域・国家』人文書院、2001年を参照した。
[4] DULEBA, A. 2000.:UKRAJINA A
SLOVENSKO, VEDA, Bratislava. 特に第六章。
[5] カルパチアとここで呼ぶ地域は、正式にはCarpatian Rusといい、およそ18,000平方キロメートルの南、及び東カルパチア山脈一帯の地域を指す。現在はこのうちポーランドのLemko地方、スロヴァキアのPrešov地方、ウクライナのPodkarpats’ka Rus’地方、ルーマニアのMaramureş地方の四つの地域から成るとされている。本論文ではプレショウ地方(総人口789,968人、2001年国勢調査実施時)のルシン人を対象としている。県okres別に見ると、ルシンの居住率が最も高いのはMedzilaburce県で40,4%、以下、Svidník県(10,5%)Snina県(8,8%)Stropkov県(5,3%)Humenné県(3,6%)Stará Ľubovňa県(3,3%)Bardejov県(2,9%)となっている。ウクライナ系住民が1パーセント以上の県は、Medzilaburce県(5,0%)Snina県(2,8%)Svidník県(2,5%)の三つだけである(Dostál, O. 2002.:Národnostné
menšiny, SLOVENSKO2002, Inštitút pre verejné otázky, Bratislava, s.198)。
2003年1月30日からスロヴァキアでは少数民族保護政策によって、コミュニティの人口の20パーセント以上がマイノリティで占められている場合には、通りの名前などをスロヴァキア語とマイノリティの言語で二重表記するよう規定した通達が内務省より発せられた(Dostál, O.
2003.:Národnostné menšiny, SLOVENSKO2003, Inštitút pre verejné otázky,
Bratislava, s.159)。
また、現在8つある行政地区kraj(時にregiónと表記されることがある)のうち、ニトラNitra、バンスカー・ビストゥリッツァBanská Bystrica、コシツェKošice地方と共にプレショウ地方は失業率が高く(約18パーセント)、長期にわたってスロヴァキアの失業率の全国平均(2004年1月時点で16,6パーセント)を上回っている。
[6]ナショナリズム理論の代表的な基本文献として、ANDERSON, B.1991(1983).:Imagined Communities:
Reflections on the Origin and Spread of Nationalism (2nd ed).,Verso, London., GELLNER,
A. 1983.: Nations and Nationalism, Cornell University Press, New
York., SMITH, A.D. 1999 (twice).:The Ethnic Origins of Nations,
Blackwell Publishers Ltd, Oxford.及びSMITH, A.D. 1991.:National Identity, University
of Nevada Press.、吉野耕作『文化ナショナリズムの社会学 現代日本のアイデンティティの行方』名古屋大学出版会、2002年を参照している。本論文ではナショナリズムを『「我々」は他者とは異なる独自な歴史的、文化的特徴を持つ独自の共同体であるという集合的な信仰、さらにはそうした独自感と信仰を自治的な国家の枠組みの中で実現、推進するという意志、感情、活動の総称』(吉野耕作、2002年、10‐11頁)という定義に基づいて議論している。
[7] 特にグローバリゼーションとアイデンティティについては、川ア嘉元「問題の所在と理論仮説 ―グローバリゼーションとエスニック・アイデンティティ―」、平成12年度‐14年度科学研究費補助金(基盤研究B‐2、海外学術調査)研究成果報告書『複数エスニシティ地域における住民アイデンティティの構造と変容―東欧の事例』、2003年を見よ。
[8] 川ア、8‐9頁。
[9] スロヴァキアのルシンについて次の文献を参照した。BOTÍK, J.,
SLAVKOVSKÝ, P. 1995. : ENCYKLOPÉDIA ĽUDOVEJ KURTÚRY SLOVENSKA, VEDA, Bratislava.、特にRusíni na Slovenskuの項。
[10] ウクライナ史一般についてはSUBTELNY, O.2000(third edition). :UKRAINE A History,
University of Toronto press.を参照した。
[11] 詳細はMAGOCSI, P. R. 1993.:The Rusyns of Slovakia, An
Historical Survay, East Europian Monographs, Cokumbia University Press.また同書のスロヴァキア語版は1994.: RUSÍNI NA
SLOVENSKU, Historický prehľad, Rusínska obroda v Prešove.
[12] GAJDOŠ, M., KONEČNÝ, S.,
MUŠINKA, M. 1999.: RUSÍNI / UKRAJINCI V ZRKADLE POLOSTOROČIA, Niektoré aspekty
ich vývoja na Slovensku po roku 1945, Prešov-Užhorod, s.7.
[13] MAGOCSI, P. R.
1973-74.: „An Histographical Guide to Subcarpathian Rus’“, Austrian History
Yearbook, Vol.\-].
[14] ザカルパチア(あるいはルテニア)は1919年のサン・ジェルマン条約によりチェコスロヴァキア領(ポトカルパツカー・ルスPodkarpats’ka Rus’)となる。しかし1938年9月29日に開かれたミュンヒェン会談の後、ハンガリーが南スロヴァキアとルテニアの一部を併合している(1939年11月)。また、1945年6月にはソ連に割譲する(トランスカルパート・ウクライナ)。その間、ポトカルパツカー・ルス自治政府の設置が1938年10月から翌年3月まで、チェコスロヴァキア領内に合法的に認められた。因みに中欧諸国の中で公式に少数民族自治が認められているのは、ハンガリーである。1993年にエスニック・マイノリティ居住地区(通常、コミュニティ人口の20-25パーセント)に自治の権限を与える法律を採択した。その結果、1994年に最初のルシン自治区が北東ハンガリーのMúcsonyという村に誕生した。その後、1998年に9つのルシン・コミュニティから選出されたメンバーによってルシン自治統治機構Derzhavnoe
samouriadovania menshynŷ rusynuvが国家行政機関として構成された(本部ブタペシュト)。
[15] 東方帰一教会、あるいはウクライナ・カトリックとも呼ばれる。1569年、ヤギェウォ朝断絶の危機回避の妥協策としてポーランド王国とリトアニア大公国の合同を約したルブリンLublin合同が成立した結果、ポーランド貴族の関心は東方に移った。そして彼らと共にイエズス会を中心にして勢力拡大をはかるカトリック教会は、東方の正教徒を取り込もうという宥和策を講じた。1596年、ブレスト=リトフスクの公会議で、東方教会の典礼、サクラメント、司祭の妻帯やユリウス暦の使用などを認めた教会規律を維持しつつ、ローマ教皇の首位権を認める合同教会が成立した。
[16] ŠTEC, M. 1992.:
RUSÍNI ČI UKRAJINCI, Zväz Rusínov-Ukrajincov ČSFR Prešov, s.26.
[17] ガリツィアのルシン(ウクライナ)系住民の文化的・経済的地位向上ための啓蒙団体としては1868年にリュヴィフL’vivに設置されたプロスヴィタ協会Tovarystvo“Prosvita”があり、1920年代にはドゥフノヴィチ協会に先立って、チェコスロヴァキア共和国の学校制度改革運動(ウクライナ語によるギムナジウムの設立など)やウクライナ語による出版活動を活発に展開していた。彼らの活動は決してウクライナ定位のものではなかったにも関らず、「ウクラナイ化」と映ったルシンのインテリゲンツィアたちの警戒を引き起こした。こうした反応の結果、ドゥフノヴィチ協会が採用したマニュフェストは、明確なロシア定位のものとなっている。これは明らかな反ウクライナを意味していた。スロヴァキアには1925年に最初の支部がプレショウに作られたが、30年には独立した組織となる。プレショウの街の一角に今も立っているアレクサンデル・ドゥフノヴィチの銅像はこの協会が作ったもので、もとは中央広場にあった。1939年スロヴァキア国時代に活動を禁止され、戦後再開するも今度は1948年に共産党政権下で「ブルジョワ・ナショナリスト」の名のもとに再び活動を禁じられた。共産主義政権の崩壊後、1991年にプレショウで協会の活動が再開された。因みに現在のドゥフノヴィチ協会は、ルシンやウクライナ、スロヴァキア人の会員を抱えているものの、基本的にはウクライナ定位であり、ウクライナ語による出版活動を行なっている。MAGOCSI, P.R., POP, I. 2002.: ENCYCLOPEDIA OF RUSYN HISTORY AND CULTURE, University of Toronto.参照。
[18] MAGOCSI, P.
R. 1993, p.83.
[19] ŠTEC, M.
1992, s.26-7.及びMAGOCSI, P. R. 1993, p.94.
[20] Demokratičeskij
golosはこの民主連合の機関誌(プレショウ、1945‐48)。
[21] MAGOCSI, P.
R. 1993, p.95.
[22] 1963年以降、242の民族舞踊団、毎年行なわれる演劇、スポーツ大会、フォークロアの祭典などを財政的に支援した。これらは1955年以来毎年スヴィドゥニークSvidník市で行なわれた。また同時にチェコスロヴァキア政府は1956年に最初のウクライナ文化博物館をメヅィラボルツェMedzilaborce市に作った。その後、プレショウ(1957)やクラースニ・ブロドKrásny Brod(1960)に移転したが、最終的にSvidník(1964)に落ち着き、現在に至っている。但し、現在の博物館は「ルシンはウクライナ民族の一部」とするウクライナ定位に基づいた見解を維持して展示、刊行活動を行なっている。現在でも毎年、バルディヨウBardejov市で開催されるルシン・ウクライナのフォークロア祭典Makovyts’ka
Sturnaは1973年に創設された。共産主義体制が崩壊した後になると、特に1990年代前半に協会内のルシン意識の高い集団pro-Rusyn
groupが脱会し、ルシン復興協会Rusyn’ska
obrodaを設立した。この団体は現在、スロヴァキア政府からルシンの代表組織として認可されている(1991年3月に第一回ルシン国際会議Svitovŷi
kongres RusynivがメヅィラボルツェMedzilaborceで開催された。以降ポーランド、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、ウクライナ、チェコの各地で隔年開催され、2003年はプレショウで開かれた。隔月発刊の定期雑誌Rusynはその公式刊行物である)。一方、ウクライナ定位の会員は組織名をチェコスロヴァキア・ルシン・ウクライナ連合、後にスロヴァキア・ルシン・ウクライナ連合Soiuz
Rusyniv-Ukraïntsiv Slovachchyny(SRUS)に改名し現在に至っている。会員本人がルシンを名乗ろうとウクライナ人を名乗ろうとに関わらず、SRUSの立場は「ルシンはウクライナ民族の一部」としている。
[23] MAGOCSI, P.
R. 1993, p.103.
[24] MAGOCSI, P.
R. 1993, p.105.
[25] GAJDOŠ, M.,
KONEČNÝ, S., MUŠINKA, M. 1999, s.50.
[26] MAGOCSI, P.
R. 1993, p.107-8.
[27] MAGOCSI, P.
R. 1993, p.108.を見よ。大方は平和裏に正教会からギリシア・カトリック教会側へ教会が返還されたが、中には正教会の聖職者たちによる破壊活動や礼拝の妨害行動など物理的抵抗も行なわれた。
[28] GAJDOŠ, M., KONEČNÝ, S., MUŠINKA, M.
1999, s.52.
[29] 既存の文化団体の解体、再編、ルシン国際会議などについては注19を参照のこと。
[30] 出典:Sčítanie obyvateľov, domov a bytov 2001及びInštitút pre verejné otázky刊行のSlovensko各年鑑、Revue o dejinách spoločnosti編HISTÓRIA, November / December 2002号、PODOLÁK, P. 1998.: Národnostné menšiny v Slovenskej Republike, z hľadiska demografického vývoja, Matica Slovenska, Martinから作成。但し、「ルシン・ウクライナ総人口」については社会主義時代より前の時代の数値が資料によって異なる。
[31] MAGOCSI, P. R.
1997.:The Birth of a new nation, or the return of an old problem? The Rusyns of
east central europe., Akadémiai Kiadó, Budapest.
[32] MAGOCSI, P. R. 1997.:Carpatho-Rusyns, Carpatho-Rusyn Research Center,Inc.発行のパンフレットから。
[33] スロヴァキア共和国の場合、各マイノリティの代表によって構成される文化省専門委員会(MKSR)によって、文化活動や出版活動に対する財政支援の割り当てがなされ、地方にある国の出先機関や地方自治体を通して資金が配布される。Dostál, O. 2003,
s.167.
[34] 2002年にはルシンとウクライナ人マイノリティの関係が緊張した。2001年に国勢調査が行なわれた時、ウクライナ側住民の代表がルシンとウクライナ系住民がひとつのエスニック集団として見なすよう「民族の統合の継続」を謳った請願運動を起こした。これに対してルシン側は2002年1月に、ルシンとウクライナ系住民は不当に同化圧力を掛けられているとした声明を発表し、政府の少数民族政策を批判した。また再三、ウクライナ人側が自分たちの権利主張を多くし過ぎている、ルシンを独立したエスニック集団として存在することを拒否しているとして批判を繰り返した(Dostál, O.
2002, s.202.)。また2002年1月30日付日刊SME紙中の記事Rusíni nechcú, aby za nich hovorili Ukrajinci.参照。
[35] HOMIŚINOVÁ, M. 2001.: Názory na etnickú
identifikáciu a etnonym rusínskej / ukrajinskej minority na Slovensku. In:
Gajdoš, J. (Ed.)2001.: RUSÍNI/UKRAJINCI NA SLOVENSKU NA KONCI 20. STOROČIA,
K vybraným výsledkom hostoricko-sociologického výskumu v roku 2000.、特にs.91-92.
[36] BAUMGARTNER, F.: Príslušnosť k
majoritnému, vs.minoritnému spoločenstvu a vnímanie etnickej identity. In:
Gajdoš, J. (Ed.) 2001.: RUSÍNI/UKRAJINCI NA SLOVENSKU NA KONCI 20. STOROČIA,
K vybraným výsledkom hostoricko-sociologického výskumu v roku 2000,
s.101-108.
[37] FRANKOVSKÝ, M.: Posdzovanie identity k
makrosociálnym útvarom príslušníkmi majoritnej a minoritných spoločností. In:
Gajdoš, J. (Ed.) 2001.: RUSÍNI/UKRAJINCI NA SLOVENSKU NA KONCI 20. STOROČIA,
K vybraným výsledkom hostoricko-sociologického výskumu v roku 2000, s.113.
[38] ŠATAVA, L. 2003.: Národnostné
menšiny, SLOVENSKO NA CESTE DO NEZNÁMA, Inštitút pre verejné otázky,
Bratislava, s.122.
[39] スロヴァキア科学アカデミー社会学研究所と中央大学社会科学研究所の共同調査(スロヴァキア民間調査会社MKVの協力による)で用いた質問票の集計データ。
[40] 彼らの八割に当る14名がプレショウ郡の在住である。また全体の回答者の1,3パーセントである。男女比は男性8名、女性が9名、最年少は33歳、最年長回答者は72歳であった。
[41] Dostál, O.
2002, s.197.
[42] 2001年に実施された国勢調査によれば、プレショウ地方全体のギリシア・カトリック信者121,188人(15,3%)、正教徒31,458人(4,0%)、ローマ・カトリック信者529,099人(67,0%)であった。県別の内訳を見てみると、ギリシア・カトリック信者が多いのはMedzilaborece県(55,5%)、Stropkov県(40,8%)、Svidnék県(36,5%)、Stará Ľubovňa県(31,0%)、Vranov nad Topľov県(24,1%)、Snina県(22,2%)、Bardejov県(19,1%)、Humenné県(17,5%)、Sabinov県(10,4%)、Prešov県(7,7%)の順となっている。プレショウ市にはギリシア・カトリック教会の司教座がある(Katedrálny
chrám sv.Jána Kristiteľa)。また、正教徒が多いのはMedzilaborece県(29,0%)、Snina県(21,1%)、Svidnék県(19,8%)、Stropkov県(7,5%)、Bardejov県(5,4%)、Humenné県(3,7%)、Prešov県(1,1%)の順となっている。
[43] SMITH, A.D. 1999, p.15.
[44] SMITH, A.D. 1991, p.21.
[45] TRIER, T. 1999.:INTER-ETHNIC RELATIONS IN TRANSCARPATHIAN UKRAINE, European Centre for Minority Issues Report #4., Uzhhorod, 特にp.22.
[46] SMITH, A.D. 1999,
p.163.
[47] SMITH, A.D. 1991, p.154.
[48] 川ア、6‐7頁。
[49] KONEČNÝ, S., HOMIŚINOVÁ, M. 2001.: Názory
na postavenie a vývoj Rusínov / Ukrajincov na Slovensku. In: Gajdoš, J. (Ed.)
2001.: RUSÍNI/UKRAJINCI NA SLOVENSKU NA KONCI 20. STOROČIA, K vybraným
výsledkom hostoricko-sociologického výskumu v roku 2000.、調査の内容と分析については特にs.41-47.を参照のこと。
[50] GIDDENS, A. 2000, p.31.
[51] 宮島・羽場、98頁。
[52] 同上、99頁。
[53] 既に政府の緊縮財政政策の影響は、ロマの人々の社会生活保護の切り詰めにまで及び、2004年2月下旬には東スロヴァキアを中心にロマによる抗議運動が連鎖反応的に発生した。
[54] ギデンスは、グローバリゼーションの進展が、様々な変化の複合の結果もたらされる無目的かつ無原則的にできあがる秩序、即ち、グローバル・コスモポリタン社会の到来を否応なしに招くと主張している(GIDDENS, A. 2000, p.37.)が、筆者はルシンの一部若者の中にそういった生活環境の変化に反応し、適応してゆく姿を見出すのである。
[55] ルシン人の生活世界を考えた時に、プレショウ‐ミハロウツェ‐ウジゴロドを結んでいるラインが見えてくる。本稿の最初でも見たように、歴史的経緯の影響から、日頃の小規模な経済活動(国境を毎日のように行き来するウクライナ、ハンガリー、スロヴァキアの各行商人)、文化活動(ウジゴロドやプレショウでのルシン国際会議Svetový kongres Rusínovの開催、大学間交流)その他、日常の行動範囲(ウクライナ人やルシン人とスロヴァキア人の結婚)や文化的思考範囲が政治・行政区分としての国境を依然、超えていることを意味する。
[56] 《ルシニア》という言葉を筆者はプレショウでRedakcia Rusín a Ľudové Noviny編集部のM・マルツォウスカーMariia Maľtsovs’kaさんから聞いた。
[57] ナショナル・アイデンティティの制度化の過程については、筆者はシートン・ワトソンやアンダーソンの「公定ナショナリズム」に影響を受けている。特にアンダーソン(ANDERSON, B.1991)。
[58] 吉野、26頁。ルシンに関する事例としては、ルシン復興協会Rusyn’ska
obrodaスポークスマンであり、ルシン国際会議議長(2001年‐)のA・ゾズリィャクAleksander Zozuiak氏のケースが挙げられる。なお氏の父親はヴァシル・ゾズリィャク氏で、ウクライナ定位でプレショウ出身の有名な作家である。上述のスヴィドゥニークのウクライナ文化博物館やスヴィドゥニーク・フォークロア祭の創設に尽した(以上、MAGOCSI, P.R., POP, I. 2002)。
[59] Rusynophilesとは、言語人類学的に独立した民族であると信じるルシン、あるいはカルパート・ルシンの人々を指す。通常、ロシア人やウクライナ人双方の一分枝種族である見なすRussophiliesやUkrainophilesと並列した立場をいう(MAGOCSI, P.R., POP, I. 2002)。また、筆者のモデルに照らすと、この段階(a)でひとつのまとまったエスニック・グループとして政治的活動や権利主張を行なうことができると思われる。
[60] SMITH, A.D. 1999.: National
Identity and Myths of Ethnic Descent, Research in Social Movements, Conflict
and Change, vol.7, pp.95-130.
[61] ERIKSEN, T.H. 2001.: Ethnic
Identity, National Identity, and Intergroup Conflict‘(Rutgers
series on Self and Social Identity, volume3, „Social Identity, Intergroup
Conflict, and Conflict Reduction“),p.49.
[62] 東スロヴァキアの多民族共存社会と似た好例として、トランシルヴァニア地方を挙げることができる。戸谷浩『サクランボの里の”日常”―1989年「革命」以後のブラニシュテア村(トランシルヴァニア)の場合―』明治学院論叢第691号(総合科学研究第68号)、2003年。また、戸谷『「チャーンゴー」研究のアポリア』アジア文化研究別冊、魚住昌良・斯波義信両教授記念号、国際基督教大学アジア文化研究所、2002年参照。後者はモルドヴァに居住するチャーンゴー人のアイデンティティ形成についての論文。同じカルパチア山脈に住むルシン・アイデンティティとよく似たアイデンティティ形成をしており、興味深い。
[63] SMITH, A.D. 1991.: National Identity: University of Nevada Press, p.85.(高柳先男訳『ナショナリズムの生命力』晶文社)
[64] スミスはエスニシティを巡るパラドクスとして「はっきりした社会的文化的母集団のうちで、個人と文化のあらわれ方が絶え間なく変化しているという流動性と永久性の共存」(SMITH, A.D. 1991, p.38.)を挙げている。
[65] 「環境の変化に呼応する可塑性」という着想は、次の文章からヒントを得たものである。《免疫系における「自己」と「非自己」の識別能力は、環境に応じた可塑性を示すのである。免疫系というのはこうして、単一の細胞が分化する際、場に応じて多様化し、まずひとつの流動的なシステムを構成するところから始まる。それから更に起こる多様化と機能獲得の際の決定因子は、まさしく「自己」という場への適応である。「自己」に適応し、「自己」に言及しながら、新たな「自己」というシステムを作り出す。この「自己」は、成立の過程で次々に変容する。…〈中略〉… こうした「自己」の変容に言及しながら、このシステムは終生自己組織化を続ける(多田富雄『免疫の意味論』青土社、2003年、第五章「超システムとしての免疫」104頁)。
[66] アレクサンデル・ドゥフノヴィチAleksander Dukhnovych(1803‐1865)。ギリシア・カトリックの聖職者、文学者、歴史家。カルパート・ルスの民族覚醒者として知られる。
[67] このアンソロジー(詩Vruchanie中の一文、1851年)は今もルシンの統合の象徴とされている。
[68] 上述のトランシルヴァニア地方と同様に多民族共生社会の好例として、ユーゴスラヴィアのヴォイヴォディナがあり、ここにもルシン・ウクライナ系住民が約18,000人ほど暮らしている。佐藤雪野「ヴォイヴォディナのスロヴァキア人」、平成12年度‐14年度科学研究費補助金(基盤研究B‐2、海外学術調査)研究成果報告書『複数エスニシティ地域における住民アイデンティティの構造と変容―東欧の事例』、2003年、320‐331頁。また、カルパチアやパンノニア、バルカンの地域史一般についてはMAGOCSI, P. R. 2002(revised and expanded edition):HISTORICAL ATLAS OF CENTRAL EUROPE, From the Early Century to The Present, Thames & Hudson, London.を参照した。
[69] 「ディアスポラ・ナショナリズム」についてはゲルナー(GELLNER, A. 1983)参照。
[70]宮島・羽場、65‐68頁。